画面の中の恵比寿ガーデンプレイス

恵比寿ガーデンプレイス」という場所の名前を初めて聞いたのは、TBS系ドラマ『花より男子リターンズ』の中で、主人公牧野つくしと道明寺司のデート場所、再会場所としての合言葉、だったと思うし、同世代の女子が「恵比寿ガーデンプレイス」を知るきっかけは大体そのドラマだったんじゃないかと、世の中をよく知らない私は思っている。

ドラマの画面の中で見たその場所は、大理石の中庭のような場所で、高級感があり、田舎街から数えるほどしか出たことの無い私は、都会の恋人同士が待ち合わせをする場所、「都会」と「恋愛」という縁の無くて手に入れられないものが掛け合わさった、雲の上みたいな場所だった。しかし、上京してたまに行くようになった恵比寿駅は、レンガ造り風の駅舎やエビスビールの音楽の発着メロディは新鮮に感じつつも多少庶民感のある西口の雰囲気には、「ああ、なんだ恵比寿って、私みたいなのがウロウロしてもいい場所じゃん」と感じる安堵もまた存在した。

恵比寿ガーデンプレイスに初めて訪れた時のことを記憶している。大学1年生のクリスマスイブだった。フランス語のクラスで仲良くなった女子数名とその場所へ行った。恋人がいるわけでもなく、(クリスマスに恋人とデート、なんて単なる瞬間的なごっこ遊びのようなものなのだが)そういうごっこ遊びができないことによる虚無感に包まれたまま18歳のクリスマスイブを迎えようとしており、誰が言いだしたのか、思い出せないが、そこに集まることになった。一方で、「クリスマス」というイベント自体への憧れに対しては、その憧れを真っ向から浸りに行きたかったのだろう、恵比寿ガーデンプレイスにあるバカラのシャンデリアが見たい、という気持ちで、大量のカップルがいることは承知で、女子大生5人で行くことにしたのだ。

今思えば、自分が喉から手が出るほど欲しかったそういう「ごっこ遊び」をしているカップルがおびただしくいるわけだから、改めて途方もない虚無感に包まれそうなものだが、実際に行ってみるとそうではなかったのだ。何かって、そういう虚無感を圧倒してしまうほどの、光景だった。高級感のあるレッドカーペットに、ガラスの四面体に入ったシャンデリアはきらきら、していて、その奥にジョエルロブションのまろやかなピンク色の建物がある。今見ると、『東京カレンダー』に出てくるような、少し斜に構えてみてしまうような(30までに行けたらイイ女ね、ハイハイ…という)場所なのだけれど、あの場所を純粋に憧れの目線だけで見ることができたのが、貴重な若さであり、純粋さだったのだと思う。

そこから3年が経過して、『東京女子図鑑』も履修し、ありそうでフィクションなそういう東京で起こる経済力のある男女の悲喜こもごものコンテンツを理解し、恵比寿ガーデンプレイスに行った頃の純情さも薄れてきた頃、私は大学卒業と卒業論文の提出を間近に控えていた。私が所属していたゼミには年が明けてすぐに、卒業論文の草稿を教授の家に持って行って、見てもらう伝統があった。先輩曰く、先生のおうちは恵比寿にあって、先祖代々の土地なのだそう。指のかじかむような、それでいて空気の澄んだ2019年の年初、私はまた恵比寿駅の東口を歩いていた。

先生のお家は、東口の瀟洒な街路樹の並ぶ通りの少し入ったところにあって、ああ、こんなところにお家(それも実家)があるのか…と少し溜息が出た。

卒業論文を書き上げるために、正月は実家には帰っていない。自分で作った味の薄いおでんを食べて、パソコンに向かって、自信のない文章をつらつら書き並べているうちに年が明けた。借りている北品川のマンションからは、箱根駅伝のルートを見ることができ、選手が走っているところと、テレビをシンクロさせてみることができたのだが、なんだかそれも寂しい。私の生まれ育った場所ではないところで、いくらテレビに映っていても、その場所は、賃貸で借りているだけで、そう意味で何も誇らしくはない。

先生の家にあがると、大量の書物に囲まれた大型テレビにウッディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』が流れており、主人公がタイプスリップしてフィッツジェラルド夫妻の乱痴気騒ぎに遭遇するという、少し陳腐にも思えるようなパニックが繰り広げられていた。先生の奥さんは、上品な色のミルクティーを高そうなカップとソーサーで出してくれた。先生の奥さんも、批評家で、教授職をされていて、NHKの新春の教養番組に出るから、ぜひ見てやってくれ、と先生から言われた。先生が私の文章に目を通している間はまったく自分の書いた文章が恥ずかしく、どうにもどぎまぎして、他のことを考えようとする。考えようとしても、頭に湧き上がるのは、今頃故郷の両親は古い車でスーパーのおせちでも買いに、少し遠いスーパーマーケットへ出向いているのだろうか、とかそういうことで、そこには望郷の念ではなくて、恵比寿でお正月を迎えている自分を比較し小さな罪悪感と、先生のような東京に先祖代々の土地を持つ人たちへの劣等感があった。

草稿には、Very readable. (「とても読みやすい。」)と書かれ、それって複雑かつ高度な英文が書けていない、ということなのだろうか、と思いつつ、それでも中身は以前より詰められたね、とめったに褒めない先生からお褒めの言葉をもらった。

帰りに、東口付近のマクドナルドに入り、先生からのアドバイスを丁寧に読む。東京で「場」を確保するには、ほかのどんな土地よりもお金がいるだろう。「場」を受け継がなかった私は、東京に住む「場」を得るにはお金を払い続けるしかなく、お金を払わなければ東京にはいられない、ずっと私は部外者、なのだ。そういう思考が、卒論について考える言語の邪魔をした。そうだ、部外者なのだ。恵比寿ガーデンプレイスで誰かと待ち合わせをしたって、部外者としてずっと、東京に私はいるのだろう。

京急線から見えるまち

27歳にして、初めて運転免許を取得した。
仕事に行きながら、億劫になることもしばしばだったが、ドライビングスクールに通い、カーブの曲がり方、右左折のやり方に関しては不安が残るものの、一応卒業することができた。自動車学校を卒業したら、最後に残っているのは運転免許センターに行って受ける本免試験だ。上京して数年経ってやっと住民票をうつし、晴れて東京都民になった私は、仕事が休みの平日に鮫洲にある運転免許センターへと向かった。

実は、働きながらの免許取得計画だったため、勉強は万全とは言えなかった。免許センターの近くに、本免試験と同じような問題で特訓してくれる塾があると聞いて、本番試験は午後からだが、ほぼ仕事に行くのと同じ時間に家を出た。ほぼ埼玉県と言えるくらい東京の北の駅に住んでいるため、かなり時間がかかった。JRで品川駅へ、京急線に乗り換えて鮫洲駅へ。

品川駅を利用するたびに、大学から大学院時代の5年間が思い出される。北品川の家賃9万円程度のアパートを借りて、出かけるときはいつもJR品川駅を利用していた。通学、少し心が躍るサークルの飲み会、国会図書館へ論文の資料探し、バイト代が入って軽やかな足取りで向かうサマーセール。全てこの駅から向かっていた。今でも新幹線に乗るために品川へ向かうと、甘酸っぱい、そしてそのころの自分を思い出して恥ずかしいような気持ちになるのは、そのためである。

京急線へ乗り換える。少しレトロチックな赤い電車。普通電車は、都心の鉄道会社にしては本数が少なく、滝のような汗を流しながら、スポーツドリンクをがぶ飲みして、電車の到着を待っていた。品川から、北品川。北品川の京急線沿い。緑の橋を通る。箱根駅伝のルートにもなっているその沿線沿いに私の住んでいたアパートはある。ちらっと見えたその建物。なんだか、昔の恋人を偶然目にしてしまったような気まずい気持ちにもなる。しかし、当時の姿とは違っていて、グレーの布と工事用の足場に覆われていた。

取り壊されることは前から知っていた。2020年、夏。コロナ禍で東京に1人。孤独に修士論文を仕上げなければならず、ただ孤独に閉塞感が心に充満した状態が続き、心を壊しかけたあの夏。普段は、公共料金の請求書や、不要なチラシしか入っていないメールボックスを、汗だくの手で開けた私は、白い大きな封筒が入っていることに気が付いた。東京都からのお知らせだったと思う。内容は、「京急線の高架工事のため、沿線付近のアパートは取り壊しになり、立ち退きが必要」とのことだった。補償について詳しく書かれていた。自分とは関係ない、ということに自信を持ちたかった。この修士論文を完成させ、修士号を取得し、就職も決め、仕事に通いやすい新たな場所を探せるはずだ…と。取り壊しは4年後のはずなのに、来年のことかのように錯覚し、強く思った。「この家を出なければ。」と。心を壊しかけていたのだが、とにかく研究を進めるしかなかった。周囲が社会人2年目になるなか、経済的にも自立しておらず、自分の進めるべき唯一のものである修士論文でさえも、うまく書けそうにない。さらに、(今思えばその部屋は親からの仕送りで借りていたのだが)家までなくなってしまう。就職だってしないと。履歴書ひとつ書くのも億劫な自分である。内定までこぎつけるなんて、気が遠くなるほどの道のりだ。

北品川を過ぎ、新馬場、青物横丁…
この辺りは、コロナ禍で1日中引きこもっていた日には、よくウォーキングをした。一人暮らしな既に長かったものの、人と喋らなさすぎることには気が滅入っていた。外出もしないことで、余計に気分が落ち込むので、少し潮風を感じる京急線沿線を、どうでもいいような洋楽、(メッセージ性のあるものはなかなか聴けなかった。心に沁みるので。)を聞き流しながら、大股で歩いていたコロナ禍の記憶がよみがえる。

鮫洲駅に着く。
そのときに気付いたのだが、この京急線に揺られている時間が終わってしまうことが惜しい気持ちもあった。京急線の心地よさは、それが羽田空港に向かう電車であるからだ。羽田空港を利用する目的は、ほぼ9割が地元に帰ることだ。冒険に向かうための空港ではなく、自分の生まれ育った故郷へ帰るための空港が、わたしにとっての羽田空港なのだ。1年間が無事に終わり、ほっと一息つきながら帰省の帰路につくために乗るのが京急線の下り方面なのだ。そんなはずはないのに、潜在的にどこか、このまま乗っていれば地元へたどり着けるのに…と安寧への執着が生まれる。

そんな気持ちを振り払って、鮫洲駅につく。ものすごい日差しで、日傘も意味がないくらいだ。例の塾はすぐに見つかり、「不合格だった全額返金」の文字に安堵する。落ちてしまったときには、お金のことも含めがっかりするだろうと思ったからだ。すぐに講習は始まり、ポイントをおさえることができた私は、問題を解いて多少の勘違いで失点する程度までになった。

午後の試験本番は、拍子抜けしてしまうほど簡単だった。あっさりと合格して交付を待つ間に食べた鮫洲の天ぷらうどんは、とても故郷の味に近く美味しかった。交付された免許をまじまじと眺める。就職してから、何か努力をして手に入れる、という機会が少なかったためかもしれない。なんとも言えず嬉しい気持ちをかみしめた。

東京では、すぐには運転しないだろう。
またこの京急線に乗って故郷に戻った時に、少し練習でもするか、と品川駅が近づく京急線のなか、夕方前の日差しにつつまれ、巨大なビル群に怖いような誇るような気持ちを覚えながら、小さく思ったのである。